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金・銀・銅・硫化鉄鉱
伊豫鉱山 
「四国鉱山誌」に載っていた金属鉱山、
ルールに従い、詳しい地図は載せません。
いつもの石の方々に同行させて頂きました。

ここには、珍しく当時の施設跡がはっきりと残っており、
(困難な)鉱石探しよりも廃墟探索がメインとなります。

写真は、坑口から湧出する鉱毒水が溜まっている沼。

四国の山々 
この鉱山は、元禄2年頃に発見されたそうで、
明治33年、入野の豪農・山中好男という人物が
鉱業権を得て採鉱を始めたのが最初だそうです。

しかし狸掘りの限界か、ほどなくして鉱量に
限界を感じ、明治40年までに休止されました。

選鉱所跡地 
その後も、明治40年に徳島の人影山矩公と奥田某という
人物が、大正5年には高田商会という商社に鉱業権が
移ったようですが、いずれも鉱量に恵まれていません。

この鉱山の鉱況が一変したのは大正13年から。
大阪の人新居田直太郎により精力的な探鉱が行われ、
初の削岩機使用もあって、昭和9年度には精鉱9,300tが
産出される一大鉱山へと成長しました。

残された枕木 
昭和10年1月には、日本鉱業に事業が継承され、
鉱況不良となる昭和17年9月末まで操業しました。

と、資料の引用はここまでにしておきます。
現地には、ナベトロが走った軽便鉄道の枕木が
残されており、坑口から選鉱所跡地前、ズリ山、
索道への道順が自然と浮かび上がりました。

高度差のある三ヶ所の坑口を持っていたそうですが、
現在確認できる坑口は一箇所のみで閉塞しています。

鉱毒水の沼 
画像のように、所々に毒水が溜まってしまい、
底なし沼のようになっている場所がありました。

足元に沼が迫る場所や、膝まで沈み込むような
場所もあって危険極まりない状態です・・・また、
鉱水処理義務者がおらず、毒水が直接流れ込んでいる
影響からか、直下の川には魚影が見えません・・・。

操業時、鉱石は軽便索道で中継所に降ろされ、そこからは
トラックで港に運び佐賀関精錬所へ機帆船で運ばれました。

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