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二本松隧道
完全閉鎖
地図
明治44年に創立された愛媛鉄道跡の隧道を訪問。
当初、鉄道は大洲〜松山間を内子経由での営業を予定していました。
しかし、内子〜松山間の山間と川を沿う区間が難工事になると分かり、
大洲→内子の予定を変更して、大洲→長浜に計画が変更されます。
工事は大正5年4月起工され、大正7年1月に大洲〜長浜間が竣工、
当時は軌間762mmの軽便鉄道としての敷設でした。
そして、今回訪問した愛媛鉄道の大洲〜内子間は、
大正9年9月に
内子線として開業した盲腸区間
となります。
旧内子線の敷地
愛媛鉄道の終焉は、思ったよりも早いものでした。
昭和8年10月、路線・会社もろとも国鉄に移管され、
従業員も全員が国鉄職員となって廃止されます。
この時、元愛媛鉄道区間だけ軌間762mmでは問題がある為、
国鉄標準軌である1,067mmに改軌工事を受けました。
薮に没する
改軌工事の際に、不適格として放棄された隧道は
和田隧道、
八多喜隧道
、
河内隧道
、
大越隧道
の4本。
しかし今回紹介する二本松隧道のみ、隧道としては
唯一国鉄用としても使用されることになりました。
計画が長浜周りに変更されて開通した後、内子線が
遅れて開設された為、断面に余裕があったのでしょうか?
当初に敬遠されたことが良い方に転んだ一例です。
時々見えるレール
内子線は、昭和61年に予讃線の山周り線こと、
中山経由の内山線開通と共に廃止されました。
国鉄時代は昭和9年〜昭和61年、隧道の供用は52年。
現在は、高速道路の開通と国道の改良により
廃線跡の地形が大幅に改編されてしまい、
鉄道の痕跡を見られる場所は限られています。
廃線
画像の辺りは、
国道56号線からも良く見える
唯一築堤が残されている部分で、廃線らしい
光景が見られるうえにレールが残置された区間です。
大部分は薮によって確認し辛くなっていますが、
南に畑が広がっている100mほどの区間だけは
薮が刈払われており、レールの確認が容易でした。
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