HOME地蔵峠
目黒隧道(コンクリ巻)旧道
建徳寺にて 
※追記※
峠を訪問した後日、地蔵峠にあった野仏を見に行きました。

野仏は二体あり、画像の物は青面金剛像のようです。
初めは、庚申塔にあるはずの三猿(見ざる聞かry)が見当たらないので、
馬頭観音か多臂の弁財天である可能性を考えましたが、光背(竿石)の
部分に目黒村 安全と書かれており、峠に庚申庵が存在していたことと、
左手に鉾を持っているようなので、青面金剛像と判断しました。

地蔵菩薩 
もう一体は、地蔵菩薩像でした。これも舟後光型の野仏。

光背(竿石)には、邑(むら)・里・七・丁?・息などの文字が見え、
道しるべか、村の境界を示しているような気がしました。

また、この像は光背(竿石)上部か欠損しています。
大きさは、台を除いた高さが40〜50cmくらいでした。

おまけ 
建徳寺には葷酒山門に入るを許さずの碑がありました。
「不許葷酒入門」ということは曹洞宗(禅寺)ですね。

私の体や血液の中に溶け込んでいる物は、きっと許してくれるry

昔、高野山に泊まった時、般若水だったか般若湯だったか、
夕食に日本酒があったけど、あれはええんじゃろうか?

それとも禁止は曹洞宗だけで、真言宗は葷酒OKなのか…?
閑話休題、余談でした。

鳥獣慰霊碑 
境内には、でっかい鳥獣慰霊碑が建っていました。
凄まじく立派だなと思いましたが、この石の由来が凄い。
何とこの碑、目黒山形関係資料に出てくる物の一つだったようです。

石仏由来
左の鳥獣供養塔は もと目黒若山中腹の 豊岡・富岡部落境界にあった。
この場所に移して七年後の昭和47年 万治元年の古文書が発見されて、
宇和島・吉田両藩の境界論争になる石仏と判明した。
江戸幕府の判決に至った歴史遺産である。
平成6年10月12日(寛文五年幕府判決の日) 石仏建立委員会

石仏と分かってない時に、移動させて文字を掘っちゃったのね。。。

石仏 
お茶目をやっちゃった年月日。(笑)
石仏の側面に昭和41年6月建立とあります。

もう後、7年待っていれば…!というのはタラレバですが、
今は、こうして由来と共に祀られており立派でした。

最後に、目黒山形関係資料中の地蔵峠を載せます。
掠れていますが、肉眼で地蔵堂札場という文字が見られました。

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