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輝安鉱
坑内図 
開山は明治30年(1987)ころ、立野部落の佐々木繁蔵が
旧鉱を開坑したのが始まりだと伝わっている鉱山です。
初めて採掘権が設定されたのは明治40年であり、
川登部落の坪内宗實がそれを設定しました。
その後、坪内龍二郎→大崎紀磨→大崎澄江→
佐藤芳雄→兵頭滝次郎と権利者がうつっています。

鉱種はアンチモン、愛媛県採掘権登録第121号。

北一番坑前 
愛媛大学のシイタケ栽培試験場になっています。
この北一番坑が掘削されたのは大正11年。

大正時代の旧坑で大富鉱帯を掘り当て、大ノについつい
川底近くの掘削を進めてしまったことにより川底が抜け、
河水が渦を巻いて流れ込み坑道を崩落させたので
旧坑を放棄し、別ルートで鉱体を目指す必要が生じました。
そして、掘削されたのがこの北一番坑なのだそうです。

北一番坑 坑口 
キノコを守るための案山子がコウモリとは、ほら穴前で意味深な…。

その洞窟のような坑口ですが、後年は換気坑として使用されました。
現在は、人間一人がなんとか潜り込める程度の大きさとなり、
坑口付近に至っては匍匐前進が必要になっています。

この坑口の開削にも紆余曲折が記録されていました。
まず、この北一番坑の開削だけでは前述した大富鉱帯への
接近には不十分であり、更に別の坑道を掘削しています。
鉱山の存亡を託されたその坑道は「大切坑」と呼ばれるもので、
北一番坑は当面の採掘をメインとしていたのに対し、
大切坑は探鉱目的も含めて着手されたビッグプロジェクトでした。

北一番坑 内部 
大正旧坑からの鉱脈が、つづら川を渡った対岸に
現れるのを狙って、北一号坑道は開削されました。

大きさは高さ1m、幅50cm、奥行き25mほどで、
途中に下方への分岐を確認することができます。

画像のように入って約10mの西側に待避所?がありますが、
これは分岐していた小さな坑道のなれの果てのようです…。

洞内 
洞内には石灰分が湧出して鍾乳石が垂れています。
坑道の狭さは、前を行くゴミムシ君が良い比較対象かな?

元より弘法師鉱山は湧水の多い場所が多かったようで、
排水に電力を使用していなかった当初は苦労したようです。

昭和19年に経営者となった大崎紀磨が電力ポンプや
巻揚げ機を設置するなどして最盛期を迎えました。

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