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煉瓦巻

地図
別子鉱山は、元禄3年に徳川幕府の許可を得て操業が開始され、
上納金は幕府の有力な収入源となりました。

明治維新の際には、土佐藩による接収を受ける等の
危機に立たされたものの、積極的な当時の経営陣は、
西洋の技術を取り入れ、近代的な鉱山として再生させました。

今回巡る下部鉄道跡も近代鉱山に恥じない遺構です。

瀬戸内海側 軌道跡
草が刈られているため非常に歩きやすい。

坑水路が軌道内を走っているので
線路敷きを見逃すことはありません。

初心者でも簡単に廃線探索ができました。

瀬戸内海側 坑口
ここもメジャーやスケールを用いて規模を実測。
延長54.6m、幅員3.2m、高さ4.6m。

これだけの物を、一つ一つ煉瓦を組み合わせて造る・・・
考えただけでも、並大抵の努力ではないのが伺えました。

内部
先ほどの物言嶽隧道と比べて、
こちらの内部は少し煉瓦に痛みが見られます。
いくつかの煉瓦は地上に落下していました。

この痛みは現役時代から警戒されていたようで、
隧道内の一部がコンクリ補強されてしまっています。

全体が巻かれてしまわなかったのは不幸中の幸いか。

瀬戸内海側を望む
内部は緩やかにS字カーブを描きます。

この隧道も物言嶽隧道も上部に大きな山はなく、
国領川方向は崖っぷちになっていました。

二つの隧道は、純粋なトンネルと言うよりも、
ロックシェードとして建設されたそうです。
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