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松山基地
航空機用掩体(掩体壕)など
掩体壕2の上から
上に登ってみました。
戦時には土を被せ、草木も生やして偽装されていましたが、
土は風雨にすっかりと洗い流されてしまったようです。
写真に見える、小さな構造物の高さ程度に覆土したのかな?
小さな構造物は、戦後に看板広告か何かを置くのに使った
基礎かと思われます。戦争とは関係は無さそうです。
掩体壕3
入口がオープンワイドなこの形は、よく陸軍式掩体壕と呼ばれます。
しかし、異常なまでに縄張り意識の強かった旧軍においては、
海軍基地に陸軍機が駐留していたとは考えにくいのが事実・・・。
調べてみると、資材が不足がちだと、施工量が少なくて済む
陸軍のような掩体壕を海軍が取り入れたこともあったそうです。
掩体壕3 真横
この掩体壕は掩体壕2と同じ大きさでした。
紫電改、零戦、彩雲などが収められたものです。
なお、掩体壕2は倉庫として使用され、
壁が立てられているので分かり難いのですが、
この掩体壕と同じ陸軍式の造りをしていました。
航空写真にて確認
昔はもっと多くの掩体壕が残っていた記憶があるので、
少し古い航空写真(昭和50年頃)を見てみました。
赤丸で囲んでいるのが紹介した掩体壕で、
記憶通り、当時はあと2基残っていたのが分かります。
掩体壕の向きが東西南北バラバラなのは、
掩体壕の開口部が同じ方向に向いていると、
一発の爆弾の爆風による損害が全ての壕に及んでしまう為、
被害分散と狙いの分散化を図るため設計されたからだそうです。
※追記
松山空港の南側にも
喪失した掩体壕
が写っていました。
掩体壕3 前部
平成17年、6月に訪問してみると誘導路の盛土が
残っていた部分が造成され民家となっていました。
ちょっと残念でしたが、掩体壕には影響はありません。
内部に一輪車と肥料袋
が置いてあることから、
農業倉庫代わりに近所の人が使用しているようです。
追記:持ち主が変わってガレージとなっています。
垣生山にて
掩体壕の次は垣生山の隧道群です。
これは地下施設として弾薬庫、倉庫、居住などに用いられ
今回紹介しているものの他にも相当数が残されています。
垣生山以外にも弁天山の裾にも掘られており、
ほぼ全て危険防止のため閉鎖されるか崩落していました。
また、この近くの金毘羅神社付近にも、
航空隊出身の方が
建てられた碑
と
碑文が
残されています。
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