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松山基地
航空機用掩体(掩体壕)など
地図
現在の松山空港周辺には松山海軍航空隊と
松山海軍航空基地の遺構が多く残されています。
敗戦時におけるこれらの施設の総面積は288haでしたが
基地の基礎の大部分は現在の松山空港になりました。
戦争中の昭和45年5月4日には、ここを狙った空襲もあり
B-29が17機来襲、練習生37名を含む69名が犠牲となっています。
松山海軍航空隊の碑
帝國人造繊維松山工場の入口に建っていました。
帝人(teijin)の工場は海軍航空隊があった場所に
建設されているので石碑が置かれたようです。
また、この周辺の埴生山、弁天山、重信川の周辺には
(書類上では)合計38基もの掩体壕が建設された他、
地下施設となる隧道も複数建設されています。
碑文
ヘビーな歴史。
戦争末期には精鋭揃いの第343航空隊が配備され、
松山上空から広島・大分にかけて大いに活躍しました。
お陰で、この時期に松山周辺には敵機が近寄らず、
大規模な被害は無かったと伝えられています。
ただし更に戦況が悪化してくると、
343空は米軍の本土上陸に備えて鹿児島に移転、
この頃から松山も軍民無差別の空襲を受けたそうです。
掩体壕1
県道を走っていると一番初めに目に入るのがこの掩体壕。
追記:現在は住宅開発によって、県道からは見えません。
この道をよく通る人ならば、
ほとんどの人が知っている有名な物件かも。
一人乗りの戦闘機から三人乗りの偵察機まで
多様な機種が収められていたそうです。
海軍式掩体壕
旧日本軍は、海軍と陸軍がそれぞれ空軍(航空隊)を持っていた為、
掩体壕の形も海軍と陸軍それぞれで少し違いました。
現在は、間口がこのように狭まっている物は海軍式で、
レポートの後半に出てくる間口が大きく取られた
天井があるだけの物件が陸軍式と言われています。
掩体壕1の内部
この掩体壕のサイズは奥行12m、幅22m、高さ5m。
掩体壕は勿論、簡単に壊れないように造っているので
撤去するには多大な費用がかさむそうです。
全国的にも、戦跡の中で掩体壕が多く見られるのは、
歴史の保存うんぬんの活動によるものよりも、
費用の関係で放置されていることが多いそうです。
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CGI-design